あなたの自己否定や自己抑圧は、過去の何らかの経験によって作られた、「自分は罰せられるべき人間だ」「自分は人を不幸にしてしまう」「こんな自分には価値がない」といった、思い込みが原因です。
そのような、あなたの幸せを阻んでいる罪の意識や無力感を手放すための、役に立つ考え方をお伝えします。
罪悪感や無力感を持ってしまうタイミング
人が罪悪感や無力感を持ってしまうのは、主に、以下のようななことがあったときです。
加害者としての罪悪感
- 自分の欲求を暴走させてしまったとき
- 大事な人を守れなかったとき
- 人を傷つけてしまったとき
被害者としての罪悪感
- 人としての尊厳を踏みにじられたとき
- 親から否定的な態度を取られたとき
- 自分自身に対する罪悪感
これらについて、以下で一つずつ解説していきます。
加害者としての罪悪感を持ってしまうタイミング
自分の欲求を暴走させてしまったとき
人生経験や学びが乏しいために、人の気持ちを慮ることができない段階だと、欲求の赴くままに、自分勝手な行動を取ってしまうことがあります。
そして、そのときはわからなかったとしても、顕在意識では気づかないうちに、そのことがあなたの心の奥底に、根深い罪悪感を残します。
大事な人を守れなかったとき
愛する人を守れずに失ってしまったとき、人は、深い悲しみと絶望にうちひしがれ、「自分の存在は人を不幸にしてしまう」「自分は無力で、何一つ大事なものを守ることができない」という、強い罪悪感と無力感を抱きます。
そして、再び大事な人を失ってしまうかもしれないという恐怖心から、「自分は大事なものを持ってはいけない」「こんな自分に愛し愛される資格はない」と、愛を拒絶してしまうようになってしまいます。
人を傷つけてしまったとき
意図せずとも、人を物理的または精神的に傷つけてしまったとき、人は罪悪感と自責の念を覚え、「自分はまた人を傷つけてしまうのではないか」という恐怖心を抱くようになります。
加害者としての罪悪感を払拭する考え方
加害者としての罪悪感というのは、被害者としての罪悪感よりも、格段に根深いものです。
潜在意識を癒やそうと思っても、「自分は罪深い人間だ」「決して許されてはいけない」という強力な観念によって、意志の力が飲まれてしまうということがあります。
何度も向き合うことで徐々に癒やされていくので、過剰に不安になる必要はありませんが、そのような場合は、ぜひ以下のような考え方を参考にしてください。
人が人を不幸にすることはできない
まず、非常に重要なこととして、例えどのような出来事があったとしても、「自分を幸せにできるのも不幸にできるのも、自分自身だけである」ということを認識してください。
つまり、人の主観を他人に左右することはできない、ということです。
自分が何を思いどう感じるかということは、自分の内側から湧いてくるものであり、決して他人が押し付けることはできません。
例えば、愛する人との別れを経験したとしても、そのこと自体は、事実でしかありません。
どのようなことがあったとしても、人生を幸せなものにするかどうかは、目の前の事実にどのような意味付けをして、どのように生きていくのか、つまり、その人自身の生き方が決めるのです。
あなたが人を不幸にできると思うということは、相手のことを「自分よりも弱い人間」だと思っているということです。
しかし、無力な人間というものは、存在しません。
現実を創る意志の力、立ち上がる強さや尊厳というものは、誰もが潜在的に持っているものであり、そして、誰にもそれを奪うことはできないのです。
人のことを、一方的に不幸だなどと思わないでください。
最低の状況下から、誇りを取り戻して立ち上がっていく、人間の力というものを信じてください。
あなた自身が、自らの力を信頼することができるようになったとき、人のことも、同じように信頼することができるようになります。
そして、先ほど「自分を幸せにできるのも不幸にできるのも、自分だけである」と言いましたが、本質的には、人は不幸であることは一度もないのです。
なぜなら、人は常に、自分自身が望んだ学びのプロセスの中に居るからです。
人は、自分の潜在意識で望んだことしか、経験することはできません。
つまり、例えどのような苦しいことであっても、目の前の出来事から自分の心を学ぶために、自ら経験していることなのです。
それは、学びを繰り返していく中で、本当の願いを自覚して、自分自身で望む生き方を選択し、実現していくためです。
そのために、それまでたくさん選択を間違えるのです。
つまり、本当は何も間違ってなどいないし、後悔することなど一つもないのです。
だから、どのような状況にある人に対しても、他人が勝手にその人を可哀想だと思うことは、傲慢です。
人の学びを否定することは、誰にもできません。
要するに、「自分は人を不幸にすることができる」というのは、あなたの思い上がりだということです。
むしろ、あなたはどのような形であれ、人の学びに貢献しうるのです。
人間関係というものがなければ、人は潜在意識の観念を、現実として「体験」することができないからです。
辛い出来事というものは、自身の中にある否定的な観念の反映として起こります。
「その観念は必要ないものだ」ということを、自分自身に気づかせるためです。
つまり、あなたが人に対してできることというのは、相手が望んだ学びのために、相手の観念に潜在的な合意をすることだけなのです。
相手が「人間関係は自分を傷つけるものだ」と定義していたとしたら、あなたは相手に対して、そう振る舞うことしかできません。
相手がその観念を持ち続けている限り、あなたとの合意が終わったとしても、別の人間関係の中で、また同じことを繰り返し続けるのです。
あなたには人を救うこともできなければ、また、不幸にすることもできないのです。
もう一度言います。
人への影響力を、自分の行動の結果を恐れないでください。
人は誰しも、決して無力な存在ではありません。
どのような経験も、必要な学びのために、自らが望んで創り出すものです。
あなたはどのような形にしても、相手が望んだ学びに貢献することしかできません。
あなたに、人を不幸にすることはできません。
人は不完全であり、そこに良いも悪いもない
人は完璧ではなく、無知で愚かで、不条理な生き物です。
それが人間というものの、ありのままの姿です。
そして、人が生きるということは、ごく自然なことです。
「善悪」というものは、人間社会において便宜上必要なのであって、本来、その自然な営みにおいて、そのような概念は存在しません。
人生の目的は、「正しくある」ことではないのです。
ただ、目の前の出来事から学ぶことなのです。
そして、学びたいこととは、「自分は本当は何を求めているのか」「どのような生き方をしたいのか」という、自分自身の「心」。
そして、「自分は求める生き方を貫くことが出来る」「自ら人生を創造していくことができる」と、自分自身の「力」を自覚していくことです。
どのような人間も、あらゆる経験を通して、徐々に心を学んでいくのです。
ですから、何も否定しないでください。
経験にいいも悪いもなく、また、必要のない経験など、存在しません。
ありのままの、あなたの人生のすべてを、受け入れてあげてください。
自分の過ちを恥じなくてもいいのです。
間違えない人間は居ません。
間違えるために生きているからです。
人間が聖人君子である必要など、ないのです。
あなたはその時々で、できる限りのことをして、一生懸命生きてきました。
どうか、そのことを誇りに思ってください。
そして、その経験の中で、あなたが他者へ与えた影響に対して、罪悪感を持ち、自分を責める必要はありません。
私たちはただ、互いの学びに貢献しあっているだけだからです。
何らかの「体験」をするためには、他者との関係が必要不可欠なのです。
それなのに、「人とは正しくあるべきだ」「これが正しい行いだ」といった思い込みに縛られ、厳しく善悪を規定しようとするから、苦しくなってしまうのです。
そのような固定観念は、必要ありません。
人間が生きるということの、そのままの姿を認めてください。
人は、何もわからなくて、迷ってばかりで、弱くて、頼りなくて、間違いだらけの存在なのです。
そのように不完全だからこそ、大いに学ぶことができるのです。
つまり、学ぶというプロセスそのものに価値があり、それこそが人生の目的なのです。
人間というものの本質を受け入れることができたとき、あなたは、自分のことも人のことも、許せるようになります。
愛は決して失われない
あなたが愛することをやめて、大切なものを持つことを避けるようになってしまったのは、また失うことを恐れているからです。
しかし、もう悲しまないようにと愛を止めても、あなたは決して楽にはなりません。
なぜなら、人の本質として、愛を求めるものだからです。
あなたは、その経験をずっと忘れられないのかも知れません。
しかし、あなたがその経験をしたのは、自分をさいなみ後悔し続けるためでも、あなたには愛を得る資格がないということを示すためでもありません。
失うという経験をする本当の理由は、例え失っても、何度でも取り戻す勇気を持つため。
そして、本当は失っていないのだということを知るためです。
愛は、形を変えて、いつでも同じだけそこにあります。
あなた自身が、どのようなときもあなたの側にいたことが、その証明です。
あなたは、自分自身にずっと愛されていました。
例え悲しみや苦しみを伴うものであったとしても、あなたは何かを学びたいから、その経験をしていたのです。
あなたに必要のない経験など、一つも無いのです。
それは、自分自身からの愛なのです。
そのことに気づいたとき、あなたは、「愛は決して失われない」ということの意味を理解します。
ですからあなたは、本当に欲しいものを、愛を求めることを我慢することを、もうやめていいのです。
それを手に入れてはいけないのだと、自分を戒め続ける必要はないのです。
あなたがそれを手にする資格はないと思い込んでいただけで、本当はずっと、そこにあったのですから。
愛は、あなたの観念に応じて、形を変えます。
もう一度、あなたの本当の望みを解き放ってください。
そうすれば、愛は悲しみから喜びに姿を変えて、あなたのところへ返ってきます。
あなた自身からの、あなたへの潰えない愛を、どうか信じてください。
もう、恐れないで。
愛を受け取ることを、自分自身に許してあげてください。
あなたは十分学んできた
罪悪感とセットになっているのが、「また同じ出来事を起こしてしまったらどうしよう」という、根強い恐怖心です。
あなたは「自分が思いのままに生きたりしたら、きっと人を不幸にしてしまう」と思い込んでいます。
しかし、そのかつての出来事は、あなたの中にある観念によって起きたことであり、あなたがそれを手放せば、もう同じことは起こりません。
逆を言えば、あなたがその観念を持ち続けている限りは、同じことの繰り返しになってしまうということです。
あなたは自らの意志で、自分の学びたいことを決めることができます。
ですから、「その経験は十分だから、もう繰り返さない」と決めてください。
顕在意識と潜在意識が手を取り合っていれば、顕在意識の望まないことは起きません。
あなたには現実を創る力があることを、どうか自覚してください。
あなたが自分の力を発揮することに恐怖心を持っているのは、欲求や衝動に流されるのではないかと懸念しているからです。
あなたの罪悪感の元になった経験は、そのことに起因しているということです。
しかし、それだけの罪悪感を持っているという時点で、あなたは既に、十分に理性的であるといえます。
あなたはもう、人の心を十分に学んできました。
ですから、自分の力を解放することについて、過剰に恐れる必要はないのです。
欲求や衝動に駆られて生きることと、心のままに自由に生きることというのは、まったく逆のことなのですよ。
欲求というのは、自分の心を抑圧することによって、満たされないために、どんどん肥大化していきます。
心を解放してやりたいことを自由にやっていれば、あなたは満たされるので、欲求に走るということはありません。
人に求めたり、人から奪ったりする必要がないからです。
大丈夫ですよ。
あなたは愛を体現し、創造的で、実り豊かな人生を送っていくことができます。
そしてそれは、そのことを通して、人にも愛と喜びを与えることに繋がるのです。
もちろん、どのような人生が良いとか、悪いという訳ではありません。
いずれの経験も自らが必要とし望んだものであり、それらは全て並列です。
ただ、これからどのような経験を通して何を学びたいのかということは、あなた自身に選ぶことができるというだけです。
あなたは悔いのない生き方を望んでいる
あなたは、自分の中の深い罪悪感を実感すると、手放すどころか、「自分だけが幸せになることなんてできない」「もっと自分を罰するべきだ」と思うかもしれません。
愛や絆は自分には相応しくない、蔑ろにされる人生こそが相応しい、本当の自分を抑え込み、貶め、傷つけ続けるべきだと。
しかし、そのような生き方というのは、誰かにとって、何か得るものがあることなのでしょうか。
絶望にうちひしがれて無為な人生を送り、あなたというリソースを無駄にすることには、何の生産性もありません。
あなたは、本当にそのような生き方を望んでいますか?
例えどのようなことがあったとしても、最後まで諦めずに、人生の中で学んだことを生かして、自分にできることをやり切ること。
それこそが、誰にとっても実りある、後悔のない生き方ではありませんか?
あなたには、本当は、感じること、思うこと、言いたいこと、やりたいことが、たくさんあるはずです。
しかし、罪悪感や無力感があると、それらのすべてを、自分自身で否定してしまいます。
「自分は間違っている」「自分に言いたいことを言う資格などない」「本当の自分を隠さなくてはいけない」「のうのうと生きていてはいけない」
そうやって、自分以外の「正しい」ものを自分の上に置いて、本当の自分を表に出すことを、決して許可しようとしません。
あなたは、自分さえ我慢していれば、大人しく言うことを聞いていれば、人を幸せにできる、喜ばせることができるとさえ思っているのかもしれません。
しかし、そのようなあなたの周囲で、あなたを傷つける役回りの人々は、果たして本当に喜んでいるのでしょうか。
あなたがどれだけ我慢をして自分を罰しても、誰もあなたを認めないのではないですか。
そして、「自分には力がない」「自分は悪い人間だ」「役立たずだ」そのような自責の念が、増すばかりではありませんか。
人は、あなたを愛したいのですよ。
あなたが愛情関係を拒絶しているから、そうと感じられないだけです。
本当は、あなたも愛したいはず。
大嫌いだと思っていたあの人のことも、本当は愛しているのではないですか。
そして、愛する人を喜ばせたい、笑顔にしたいと思っているのではありませんか。
あなたは、繰り返し自分を罰すれば、自分を人身御供にしていれば、いつか許されるのではないかと思っていたのかも知れません。
しかし、自分を罰する観念によって、人に自分を傷つけさせることは、それに合意する人にもまた、同じように罪悪感を作り出してしまうという、悪循環を生み出すだけなのです。
もちろん、それもまた互いの望んだ経験であり、良いも悪いもありません。
ただ、あなたが本当の自分を認め、愛し始めたとき、あなたの愛する人もまた、あなたを愛するという喜びを得ることができるようになるのです。
それは、双方にとっての喜びではありませんか。
あなたが本当に望むのは、そのような生き方ではないですか?
正直なところ、あなたはもう、こんな人生は嫌だと、うんざりしているのではないでしょうか。
頭では、どんなに自分には生きる価値がないと思っても、本当のあなたは、自分を愛し、生きたいと願っています。
自分自身の心の声を、どうか聞いてあげてください。
あなたは、自分のことをとても愛しているからこそ、自分自身を許せなかったのですよね。
でも、そうやって罰し続けても何も生み出せないということに、あなたはもう、気づきたいと思っています。
被害者としての罪悪感を持ってしまうタイミング
自分は人を「傷つけてしまった」と思ったときだけでなく、自分が「傷つけられた」と思ったときも、人は、罪悪感を抱いてしまうものです。
それは、「そのような目に遭ったのは、自分が悪かったからだ」「自分はそのような扱いを受ける存在なのだ」と思い込んでしまうためです。
しかし、あなたは、何も悪くないのですよ。
あなたが「悪い」せいでそのような出来事が起こったのでは、ないのです。
それは、「あなたは本当は無力ではない」ということを、思い出すため。
そして、あなたが「自分は本当は何を望み、どのように生きたいのか」という、自分自身の心を知るために起きたことです。
以下のような場合は、ぜひその考え方を参考にしてください。
人としての尊厳を踏みにじられたとき
一方的に搾取される、理不尽に傷つけられるといった、人としての尊厳を踏みにじられるような体験をしたとき、人は、「自分はこのような目に遭うべき人間なのだ」「生まれてきたのがいけなかったのだ」と、強い自責の念を抱き、自分の存在そのものを否定してしまいます。
そして、「自分が○○だからこういう目に遭うのだ」と、外見、性別、年齢、職業、出身など、自分という人間を構成する要素のすべてを、何でも自分を否定するための理由にしてしまうようになります。
このような罪悪感を払拭する考え方
あなたは何も悪くないのです。
あなたは、そのままで良いのですよ。
あなたは、自分が自分であることから逃れられないということに、苦しんでいるのかもしれません。
しかし、あなたがあなたでなくなる必要なんて、ないのです。
あなたは、これからの人生でやりたいことをやるために、一番相応しい形で生まれてきたのですから。
あなたはあなただからこそ、自分を幸せにすることがができるのです。
あなたは、自分を幸せにするために必要なものを、すべて持っているのです。
だから、自分のすべてを認めて、受け入れてあげてください。
あなたはあなたとして愛されることを、享受して良いのです。
あなたは、無力ではありません。
あなたには、人生を創造する力があります。
あなたは、望んだものをすべて手に入れることができるのです。
何人たりとも、人はあなたから、決して何も奪うことはできないのです。
そのことを思い出すために、あなたは否定的な経験をしたのですね。
でも、それはもう、終わりました。
辛い経験を、よく頑張りましたね。
もう大丈夫ですよ。
これからあなたは幸せになると、あなた自身が決めたのですから。
親から否定的な態度を取られたとき
暴力を振るわれる、責められたりなじられる、呆れられる、心配ばかりされる、信じてもらえない、無視される、どのような対応であっても、親から否定的な態度を取られたとき、子どもはそれを「自分のせいだ」と解釈します。
そして、愛され認められることを求めて、親に迎合し、何らかの成果を挙げようと努めます。
しかし、いつまで経っても親からありのままの自分を受け入れてもらえるということはなく、あなたは、さらに罪悪感と無力感にさいなまれていくことになります。
このような罪悪感を払拭する考え方
あなたはそもそも、何も悪くないのですよ。
親の態度に自分の責任を感じて、自分を責める必要などありません。
人の人生の責任を他人が取ることはできないし、その必要もありません。
親自身の人生や幸せの責任は、本人たちに返してください。
そして、あなたにはもうこれ以上、親からの愛情を求める必要などありません。
あなた自身こそが、あなたを一番に愛し、満たしてあげることができるからです。
あなたが渇望して、一生懸命得ようとしている命の水の源泉は、本当は、あなた自身の内側から湧き出るものなのです。
親からの愛情の多寡によって、あなたの価値や人生が決まるのではありません。
あなた自身の自分への愛情が、他者からあなたへの扱いに反映されるだけのことなのです。
自分のすべてを認め、受け入れ、愛してあげてください。
それによって、あなたは、自分は誰かのために生きるのではなく、「本当の自分を生きること」を望んでいたのだということに気がつくはずです。
そして、これまでの否定的な辛い経験というのは、「自分はそのような生き方を望んでいたのだ」ということを知るためにあったのだと、理解することになるでしょう。
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自分自身に対する罪悪感
「自分は罪深い人間だから罰さなければならない」という観念によって、自分を痛めつけ続けていると、心の底には、その仕打ちに対する怒りが、どんどん蓄積していきます。
そして、そのさらに奥には、痛めつけてしまった自分自身への罪悪感と、自分は自分のことを恨んでいるのではないかという、恐怖心が根付いていきます。
このような罪悪感を払拭する考え方
大丈夫ですよ。
あなたがこれから、「自分のことを最優先する」という覚悟を決めて、それを自分自身に伝えること。
そして、それを誠心誠意実行していくことによって、自分自身と和解することができます。
辛い経験は、あなたが自分自身に一方的に強いたものではなく、あなたと「あなた自身」が合意して起こしたことなのです。
「もう自分を否定したくない」という自分の本心を学びたかったから、あえて自分自身と離反するということを、自分で決めたのです。
ですから、自分に対して過剰な罪悪感を覚える必要は、ないのですよ。
そこから学ぶことはもう終わったので、これからは自分自身との信頼関係を経験すると、決め直せば良いことなのです。
辛い経験をすることには、潜在的な目的がある
人はすべての感情を学びたい
人はなぜ、顕在意識ではしたくないような経験を、潜在意識では望むのでしょうか。
それは、潜在意識の感覚では、すべての経験と感情に良い悪いはなく、等しく価値のあるものだからです。
つまり、最低の感情は、至高の経験なのです。
それを経験しなければ、人として生まれてきた意味がないのです。
目を背けたくなるような経験だとしても、それが人間であるということ、それが生きるということだからです。
人の顕在意識は幸せや喜びだけを望みますが、それだけでは真に人の心を理解できないということです。
喜びを知るためには、悲しみや苦しみを知る必要があります。
ネガティブな感情も知ることによって、ポジティブな感情を理解することができるのです。
つまり、対になる経験をすることで、すべてを知ることができるのです。
逆説的に学ぶため、全否定から始める
人は自分の過去の行いに罪悪感や無力感を抱き、自罰的な観念を持ちます。
そして、そのような観念によって創られる抑圧的な現実の中で、逆説的に、自分自身の本当の心や願いを知っていきます。
やがて、その否定的な観念を捨てて、誇りを取り戻し、本当の自分を生きていきたいという意志を持つようになります。
そして、自分には望む生き方をする力があるということ、その力を本当は初めから持っていたのだということに気がつくのです。
つまり、自分を罰し抑圧する経験が、本来の力の解放、創造的な生き方に繋がっていくのです。
初めから力がただそこにあったら、自覚することはできません。
それを失って取り戻す過程において、初めて認識することができるのです。
だから、その一連のプロセスの起点となるような、辛くて苦しい経験を望むのです。
すべての人間関係は愛に基づいている
その経験をするためには、自身の持つ観念を反映し体験を作り出す、人間関係というものが必要不可欠です。
人間関係がなければ、学びは成立しません。
つまり、人間関係というのは、互いの学びのための助け合いに終始しているということです。
例えそれが、悲しみや苦しみを伴う関係であってもです。
どのような経験であっても、本質的には、それは愛に基づいているということです。
お読みいただき、ありがとうございました。
あなたの人生を、いつも信じています。